このページは、長崎の精道学園の役員廣田悠二と私との会話が元になっている。私たちは、人生や世界に対する物質主義的な見方が普通の学校のカリキュラムの全科目に影響を及ぼしていることについて話し合った。悠二は、私に、中学や高校の教師が科目の内容にもっと人間学的なアプローチをとることができるようになる本あるいは参考資料を準備するよう提案した。
私は、向山伊知郎にも多くを負っている。彼自身、人間であることに関する最も基本的な概念、すなわち、人生、知性、意思、自由、良心、愛などの諸概念をカバーした別のセクションを準備している。彼は、このページと同じような別のセクションを計画する際の主な協力者でもある。彼が私の拙い日本語が日本人にとって魅力的にきこえるようにするのにどれほど時間を割いてくれたか私にはわからない。梅田弘道からは、私の議論と言い回しに批判的かつ貴重なコメントをいただいた。文章を推敲する際に他の人にもお世話になった。
私はこのページが最終版だとは思っていない。このページに対するご意見・ご感想は、david.kolf@gmail.comまでメールを送っていただきたい。
ディヴィッド・コルフ 2005年12月19日
人間の社会
1. 社会とは
1-6
1.1 心の交流
2
1.2 人間的な仕事
2
1.3 所有権
3
1.4 価値観
4
1.5 伝統と進歩
5
1.6 共通善
6
1.7 権威と自由
6
2. 家族
7-10
2.1 本物の愛
7
2.2 性
8
2.3 親子、兄弟・姉妹
9
2.4 家庭法
10
3. 教育
10-12
3.1 成長とは
10
3.2 人間形成
11
3.3 教科課程
12
3.4 親の権利と責任
12
4. マスコミ
13-15
4.1 正しい情報
13
4.2 健全なメディア――プロヴァイダー側とユーザー側の慎み
14
5. 経済
15-19
5.1 ニーズを満たす
15
5.2 資源の問題
16
5.3 節制
17
5.4 商業倫理
17
6. 政治
19-22
6.1 法
19
6.2 街づくり
20
6.3 民主主義の条件
21
6.4 政教分離
21
人間の社会
1. 社会とは
1.1 心の交流
人は人々とコミュニケーションをとらないと生活できません。ところで、対話をする必要性はどれだけあるのでしょうか?サルは、「ほしい!」、「いや!」、「俺がボスだ!」、「危ない!逃げろ!」というような合図を出しますが、それだけで満足する人はいません。人間には、人間らしい心豊かな交流が必要です。
人間はそれぞれ自分だけの『心』があります。そして、自分が望む態度を決めるのは心なのです。感じることも、考えることも、覚えることも、すべて心の中ですることです。好きな人に心を自由に打ち明けることもできれば、そんなに親しくない人と対面するときに思っていることをある程度しか伝えずにいることもあります。『心』は大切で貴重なものですから、与えることによって相手を豊かにすることができます。しかし、心の貴重な価値がわかるからこそ、人はそれを守りたいと考えます。
親は自分がもっている才能や知識、気持ちなどを子供に惜しみなく与えます。子供は心を開き、親の豊かな心を受け入れることによって、それに応えます。そして、親は子供の心を受け入れ、その心から学び、また新たに、子供に与えます。お互いに与え合い、受け入れ合いながら、人格を形成させていきます。心は『交わり』のためにあるのです。1.2 人間的な仕事
言うまでもなく、社会人は働きます。人々は仕事を通して必要なものを手に入れ、他の人と交流を持つことができます。
あるアフリカ原住民の生活は、最初のホモサピエンスの生活とよく似ていると言われています。植物の根とライオンが残した獲物が主な食べ物で、一見したところ、われわれとはずいぶん異なった生活をしていますが、やはり人間ですから根本的な点で我々と違いはありません。チームを組み、役割分担を決める。知恵を尽くして、適切な道具を作る。歩きながら色々な話をする。集まったときには、お互いに相談し合って、どう働いたらうまく問題の解決ができるかを考える。状況に合わせて行動し、さまざまな可能性から自分達がいいと思う解決策を選んでいるのです。
まじめに働く人は、「心のこもった」仕事をすると言われます。まじめに働く人は、体力だけでなく想像力と知性で労働に貢献しようとします。単純な作業に見えても、しっかりと考えています。目的意識をもって働くのです。たとえば、工場のラインで二つの部品をくっつける仕事をする人は、ミスをしないように注意を払い、もっと簡単な方法があればいいと工夫する。また、上司に自分の気持ちをどう伝えたらいいかを考えます。このような工夫をしないロボットのような仕事を「非人間的」といいます。人間の仕事には、必ず精神的な面があり、それが他人との交流のきっかけにもなるのです。
「よくできた人」の魅力はどこにあるのでしょうか。たいていの場合、それは仕事を通して身に付けた習慣や技術、考え方のことでしょう。配慮が行き届く人は、大勢の人と話して技術を磨く。センスのいい人は、いろいろな事を見聞きしてアイディアを貯める。物知りな人は、他人が書いたものをたくさん読んで勉強する。このように、子供のときに始まった『交わり』は、生涯続きます。こうして、人は仕事によって変わって行きます。
世界も人間も、仕事によって変わります。宇宙の中で生まれる人間は、大自然を尊重して、その恵みを保たないと生きて行くことはできません。けれども、自然のあり方をよく把握すると、その魅力を生かしながらも自分に合った環境を作ることができます。洞窟を住まいにしていた昔の人間でさえ、道具をそろえて洞窟を便利な場所に変え、壁を塗ってきれいにしました。人間らしく心地よく暮らせるように工夫したのです。
自然を破壊する可能性も残念ながらあります。しかし、人間の働きによって砂漠を緑に変えることも可能です。その地方の土と気候の特徴を利用すると、もともと荒地だった所が畑に変わって人々に栄養を供給する場になり、雑草だらけの空き地が庭園に変わり、道さえない茨だらけの森が公園となって人々に安らぎの場を提供します。ほとんど実を結ばない植物が何十倍も豊かな実りを与えます。優れた知恵を使って、自然界に隠れている可能性を上手に引き出すと、世界と人間社会の両方が豊かになるというわけです。1.3 所有権
雑草の話が出ましたが、こんにち我々が食用にしている農産物のほとんどは、人間の手が加わるまで、雑草でした。花屋で売っている花もそうです。人は、自然にあるものの良さを見つけて、まず感嘆したでしょう。しかし、そこでその植物を放っておかずに、より良いものにするよう努めました。野生のまま放っておくのが一番良い場合もありますが、いずれにせよ、目の前にあるものの「良さ」を評価することが大切です。これこそ、『尊重』するという態度ではないでしょうか。つまり、善を重んじ尊ぶ態度で、人間にふさわしい心構えといえます。
狼がウサギを最後の一匹まで殺しても、それを「無責任」とは言えません。狼は自然の本能に従っただけです。恐竜が絶滅したのも自然の出来事でした。火星に生命がないこともある意味で「自然」だといえます。ところが、パンダが絶滅すれば、人間が悪いというのはなぜでしょうか。人間は自然界に勝る人格を持っていると言うと高慢に聞こえるかもしれませんが、万一、人格がないとすれば、人間は他の生命を上手に管理するという責任がないはずです。
個人や家族や団体が働いて手に入れるもの、あるいは他の正当な手段を使って手に入れるものは、入手した人や集団が、優先的に、あるいは独占的に使う権利をもっています。これを『所有権』といいます。人間らしく生きるために、人はある程度の自由をもって自分の歩みを決めてゆきます。そのためには物をそろえなければなりません。例えば、ピアニストになりたい人は、レッスンのためにお金を貯め、練習できる環境を作り、音楽の録音機材や楽譜をそろえなければなりません。練習したいときに自由にピアノが使えなかったり、聴きたい時にせっかく手に入れた曲を他人が使っていたりすると、練習は思うようにはかどりません。
所有者は第三者に自分の財産を任せることもできます。任せるときの条件はいろいろありますが、任せられた人が、ほとんど持ち主同様、自由自在に使えるケースもあります。それでも自分のものではないので、丁寧に扱う責任を感じることでしょう。
神を信じる人は自然を尊重しないという人がいます。本当にそうでしょうか。神道では、森や山や海などに神が宿っているので、人間はそれらを大切にして自然と共存するのが望ましいと説きます。キリスト教では、聖書の冒頭で、創造主である神がエデンの園をアダムとイヴに任せ、「私はこんなにきれいなものを無から創造した。所有者である私はあなたたちにこれを託す。あなたたちの子孫も含めて人々が楽しめるよう、うまく治めなさい」と命じました。自然を大事にするということは、最終的に創造主の知恵と美と善を評価すること、あるいは謙虚にその意志に従うことであると考えられています。他方、神を信じない人は、物の使い方に関して神に対して申し開きをする必要はないと思い、自分を絶対的な所有者にするので、かえって自然を尊重しない危険が大きいのではないでしょうか。1.4 価値観
映画を観に行く人はそれぞれ理由があります。ある人は、恋人と出かけるいい機会だからかもしれないし、別の人は疲れていて休息を求めているからかもしれません。また、その監督の見せる映像はいつも美しいから、人生について考えさせられるから、というような理由で行く人もいるでしょう。そのときだけの動機もあるでしょうが、よく観察すれば同じ人が習慣的に「友情」や「健康」、「快楽」や「能率」、「知識」や「お金」、「美」や「家族」、というような基準を優先させて、映画に行くか行かないかを決めていることに気付きます。『節約』するために映画を見に行かない人なら、同じく『節約』するために、新車を買わずに、中古車にするでしょう。そのことの『価値』の大切さをあらかじめ把握しており、その『価値』に照らして、選択するのです。
無意識のうちに基準とする『価値』は人生に大いに影響していますから、時々見直すのが賢明な態度でしょう。経済において市場価格と実質価格の差が大きいと危険であるのと同じように、もっと大事なことがあるのにいつも価値の低いものを選択する人は、往々にして惨めな目に出遭います。たとえば、お金のためなら何でもする人は、お金を評価しすぎており、そのためにもっと高価なものを失う恐れがあります。万一、そうなれば、結局は自分が損をします。
『価値』というものは当たり前のことだと思われているので、普通は説明されません。しかしそれは、目に見える形、とくに話し方や振る舞い方に表われるものです。こうして一つの文化ができあがります。皆が知らずに空気を吸っています。同じように、私たちは人々との『交わり』のなかで、他人からたくさんの「価値」を学んでいるはずです。たとえば、会話をするときに、言葉使いで尊敬の気持ちを表します。子供が言葉を習うときは、自然に『尊敬』という価値を身につけます。同じように、相手が話しているときに『拝聴』して、話が終わるまで割り込みをしない、反対の意見を持っていても直接にはそう言わないなど、暗黙のルールを守っています。人はモルモットではないので、自分から望まないかぎり、尊敬や拝聴といった価値は身につけることはできません。しかし、それほど深く考えなくても、「あの人のようになりたい」という程度の意欲さえあれば、同じ価値観を持つようになることが多いのではないでしょうか。
こういう『価値』には、どれくらいの客観性や普遍性があるのでしょう?自分だけの基準であれば、勝手なこだわりにすぎないかもしれませんが、大勢の人々が共通して評価していることなら、それにはそうするだけの何らかの根拠があるのではないでしょうか。人間の間で普遍的に通用する価値がありますが、同時に文化の特徴も見られます。文化によって価値の優先順位や表し方が違ってくるようです。ある社会では、『拝徳』して話が終わるまで待つよりも、『参加』して話に加わるのが望ましいと考えられています。『参加』する文化にも相手に対する心遣いを表す方法がないわけではなく、日本のような社会でも「参加するな」という決まりがあるわけではありません。同一文化の枠中で交際するほうが、お互いの意を汲むのは簡単ですが、異なる文化の中で教育を受けた人と話すときに相手がしばしば暗黙のルールを破るなら、思わずこの人は「変」だ、「無礼」だなどと判断しがちです。理解する心があればその人の良さも発見できるはずでしょうが。1.5 伝統と進歩
アフリカのある部族に、男が十四歳になると一人でライオンを殺しに行く習慣があります。勇気と責任感を教えるためでしょう。都会に住んでいると、このような習慣を続けるのは無理な話です。それだけでなく、家を野獣から守る必要性はまったくないので、責任を教えるどころか、無責任な行為になります。しかし、別の方法で大人としての勇気と責任を教えることができれば、昔からの価値観を保つことができるかもしれません。
世界には立派な伝統がたくさんあります。いずれも人間の交わりから生まれた遺産として大切に守るべきでしょう。自国の伝統が少々窮屈だと思うときがあれば、問題になっている習慣の根本的な意義を考える機会です。その意義が理解できれば、堅苦しく感じなくなることでしょう。あるいは、その表面の奥にある価値に戻れば、自分の環境に合った生き方を発見することによって、周りの人をそれだけ豊かにしてがることができるかもしれません。1.6 共通善
宴会を開いたら、まず来る人のために飲食物を用意します。皆のためですが、一人ひとりのお客さんはもちろんその一部分しかもらえません。一人が取ったお寿司を隣の人が食べることはできません。けれども、声の美しい人が歌えば、聞く人はみな同じように楽しむことができます。これが、『分ける』ことと『分かち合う』こととの違いです。物的なものをたくさんの人が利用すると、使った分だけ減るけれども、精神的な善を共通にする場合なら、全ての人が同じように豊かになるのです。
言葉や友情、知識、文化、技術、芸術などは人の心から出るものですが、まず心を開くことが必要です。交わりというのは、自動的にできることではありません。これは人間としての務めです。勿論、みなのための物的な財産も必要です。交通機関や学校、病院などの施設がないと、生活できません。けれども、それだけに注目すると、お金をどう分配するかについてと議論が起こります。あちらを減らして、もっとこちらの予算を増やせと、お互いに言い合うことになるでしょう。みなのことを考えて能力の限りを尽くし、力を合わせて努力しないと、共通善を蓄えることはできないことがわかります。
心は自分だけのためである、そして他人と接することは必要悪にすぎない、という考え方もあります。ところで、社会の中で人間らしく生きるために他人から要求するのは衣食住だけではありません。だれもが正義と正直、信用、安全、教育、理解、尊重などを求めます。他人にこういった価値を守ってほしいのであれば、自分も守る努力をしなければならなりません。そうそうしてはじめて、その交わりに関わるすべての人々がお互いの善から豊かさを汲み取ることになるのです。これは義務というより、人間本来の道でしょう。1.7 権威と自由
大勢の人が群れをなしていても、各々が孤立しているということは珍しくありません。駅のホームで待っている人たちはお互いに無関心です。退屈な顔をして同じテレビ番組を見ている人たちと、インターネット仲間と交流している人たちはどう違うでしょうか?後者は積極的に参加して同じ課題に取り組んでいます。共通の価値観に従って、全員が目的に達するよう努力しています。一人一人が自分の中の何かを与え、また相手から何かを受け取ります。つまり、コミュニケーションがあるのです。
人はたくさんの団体と関わっています。家族、同好会や同窓会、PTAや町内会、会社やNPO、ボランティアー・サークルや教会、政党や組合、研究会や学会などで、規模や交わりの密度、目的はさまざまですが、団体としての役割とルールがあります。教育機関も政府のあらゆる統治の機関もこれに似ています。
家族のように交わりの密度が濃い団体においては、「個人」と「共通」の区別があいまいになります。自分だけに義務づけられた課題を果たして、その後は知らないというような態度はあまり見かけられません。誰かに「電球が切れている」と言わないで、自分で付け替えます。安売りしているお店を見つけたら、みなに知らせます。独裁主義や社会主義においては、共同体のために個人の存在が消されることありますが、家族のような団体は個人を尊重し、擁護します。本当の交わりができているので、それぞれが自発的に動きます。つまり、お互いの心にある善を自然に分かち合っているのです。
団体が大きければ大きいほど、管理職が増え、上下のコミュニケーションが難しくなります。決定すべき人がしばしば現場から離れたところにおり、決定が遅くなります。だから、うまく役割を果たすために、小規模の団体が持つ人間味を失わない事が大事です。共通の理念と役割分担をはっきりさせなければ、仕事は混乱し、人は自由に動けない。自分からアイディアを出す意欲もなくなり、誰も責任を取らなくなり、内部の連帯も薄くなる。要するに、そこで仕事している人たちは団体の活動を推進させるのが自分の勤めであるという意識が弱くるのです。
理想的な取り組みをしていれば、指示する側と従う側の対立はほとんどないでしょう。相手が大人であれば「俺が言うからやれ」というような命令の下し方はしません。自発的で心からでる行動がもっとも人間らしくて能率がいいので、上司は下からの声によく耳を傾け、一定範囲の決定力と責任を与え、部下を信用する。指示するときに、わかってもらえるように説明する。こうなれば、従う側は自由にその指示を自分のものにして、共通の課題実現に向かって協力するでしょう。
権威を有する人が代表する政府や団体、またそれらの目的と法律に対してもつべき尊敬を考えて、国民は政治家や警察(教育界なら学長など)に対して敬意を表しますが、上に立つ人も当然法律に従う義務があります。つまり、両者は別々の形で自由,従順、責任感、尊敬,奉仕などの義務を果たさなければなりません。政治家が役割をうまく果たさない場合は、選挙や他の方法で市民が平和的にその権威者(政治家)を交代させるでしょう。
2. 家族
2.1 本物の愛
本物でない愛を目にしたことがあるかもしれません。例えば、子供に健康を損なうまで勉強させ、親の期待に沿わない子供を虐待する親。そのような親が求めているのは自慢できる子供であって、子供自身の人格ではない。本当に愛する者は相手を尊重し、その善を求めます。見返りを狙っているのなら、結局は、相手より自分のことを考えているということでしょう。
逆にこういう例を見たことがあるかもしれません。真夜中に、赤ちゃんが泣きだす。自分はまったく起き上がる気持ちがないのに、子供のためなので、自分の気持ちを無視して、赤ちゃんの面倒を見る。愛に感情が伴うことはよくありますが、愛は感情だけではなさそうです。感情というのは、起こってくる現象で、自分がすることや決めることではなく、完全にコントロールできることでもありません。消えたり、変わったり、戻ってきたりするのです。
「私の全てをあなたに」と言うとき、ただ口先なのでしょうか?いいえ、人格はそれほどの決心を立て、その決心を守る能力があります。自分以外の人格に心を余すところなくささげることができ、相手の心をも受け入れます。こうして、二人が一つの共同体を築くのです。
自分を二つに分けることはできません。相手に献身するのは「自分」ですから、一夫一婦は一番自然なかたちです。そして、受け入れるのは相手の顔や健康などではなく、その人自身です。病気になる可能性があり、母または父になる可能性もある。顔色や体重などの変化もある。しかし、同じ人です。結婚の約束をするとき、最初からそれを全て受け入れるはずです。「今は愛するけど、明日は知らない」、「当分の間、いっしょに暮らしてみて、うまくいったら続ける」などというのは、本当の愛でしょうか?条件をつけるなら、それはつまり「私に都合がいい限り」という意味ですから、心をささげきっていない証拠でしょう。2.2 性
数年前にワシントン州のある州立高等学校が、いろいろな問題の対策として大胆な改革を行いました。親の承諾を得てから、男女共学を廃止して男女別教育にしたのです。先生が驚くほど学生の態度と成績がよくなりました。その後、ほかの学校も実験的にそのシステムを導入した結果、多くの場合、よい結果に繋がったのです。
学生が容易に勉強に集中できるようになったということが成功の理由の一つのようですが、もう一つあげられている理由は、先生たちの教え方が変わったという点です。女子の学生に固有なものの覚え方があります。それに合わせて授業をすると、それまで数学が苦手だと思っていた生徒が自信を持ち始めたのです。興味を持つテーマや授業への参加の仕方もまた、男女によって差があります。 クラスを分けてから、文学が面白くないと言っていた男子学生が、よく本を読むようになりました。
男女は人間として平等です。尊厳においてはまったく相違はありません。誰でも教育を受け、社会で自由に行動する権利があります。けれども、女性が男性を真似る必要はないし、男性が男らしさを控える必要もないはずです。体と精神において、それぞれに異なる特徴があるので、固有な役目があってもおかしくありません。結婚や家族の親しい交わりの中でこそ、この「自分らしさ」が特に大事です。男女の長所はお互いに補い合うようになっています。夫と妻はお互いに必要ですし、子供はお父さんとお母さんの両方の存在が必要なのです。
愛がなければ、補い合うはずの関係がお互いに利用しあう危険に陥ります。理想的な形を取るために、自分の利益を考えないで、相手を尊重して助ける心が不可欠です。夫婦が自分自身を相手に与えることができれば、双方が豊かになります。二人が同じように子供の幸せを考えて生活すると、安定した家庭の雰囲気の中で、子供は自分を与える心を学ぶことでしょう。
夫婦行為を通して新しい人間が生まれます。これは言うまでもなく大変な責任です。人間は自然界を超える魂を備えた人格であると考えると、この行為には人間以上の力が働いているということがわかります。天も人格誕生に加わるのです。全ての文化において、性は神秘的なもの・聖なるものとして扱われてきました。そして、私たちには本来あるべき性の姿を尊重する責任があります。感覚的な楽しみのためだけではなく、そのときだけの関係でもありません。相手が誰であってもいいというわけにはいかないのです。万一、そのようなものであれば、それは偽の愛であり、尊い関係を損なうことになります。夫婦が自分の全て――心と感覚、体、将来――を互いにささげ合うこと、これが性の本当の目的なのです。2.3 親子、兄弟・姉妹
女性が得意な才能はいろいろあります。顔の表情などを読むのが上手です。ある一点に集中して働いていても、周囲のことをちゃんと把握しています。人のニーズに敏感です。人間関係を大事にします。これらはいつも役に立つとはいえ、子供が幼いときには特に必要な才能です。ここから生まれる絆のおかげで、子供は安心できる環境の中で育つことができます。
経済学者が「生活基準」を測るとき、なによりも財産を見ます。広い住宅に住み、スポーツカーを持ち、いつでも外国に飛んでスキューバダイヴィングができる独身の人が、いい生活をしていると判断されます。しかし、心を豊かにするのは物ではありません。この先、収入が減るから好きなことができなくなるなどと言って、出産を後回しにしたり、子供の数を減らしたりする親が昔と比べて多くなりましたが、趣味や余暇よりも人間を優先することこそ、幸せへの道ではないのでしょうか?
ある小学校の先生が子供たちに何が一番ほしいかとたずねたら、「弟」や「妹」という返事が圧倒的に多かったそうです。どんなにゲームがそろっていても、人間は本能的に相手を要求します。物では相手になれないのです。兄弟がいないと、母親からの自立が難しくなりがちです。家族の中に一緒に遊んでくれる仲間がいると、毎日何時間も体を動かし、コミュニケーションをとることができます。もう少し成長すると、家庭は理解や協力や責任など、さまざまな美徳を育てる場になります。ある大家族の父親は自分の経験をこう話していました。「困難は分散され、喜びは増加します。」
しっかりした人間を育てるために、適切な環境を作る必要があります。現代社会の大きな矛盾の一つは、保育園における子供の世話が専門職と評価され、ホテルのコックの料理も専門職として認められているのに、自分の家庭で家事に従事することが社会人にふさわしくないかのように見られている点です。目立たずに続けられる家事が計り知れない恩恵を社会に与えていることは、理解されていないのです。
父親の役割も大事です。その一つはもちろん、母親を支えることです。二人の気持ちが一致しているのを見ると、子供は迷いません。しかし,男にも固有な考え方、話し方、働き方やはりあります。男は刺激に対する反応はより攻撃的です。競争心が若干強いです。組織の構造と縦の関係を意識します。父親は、基準を大事にして、そのときの感情に左右されないで長期目標を目指すことが得意です。子供が十代に入るとこれはとても大切になりますが、勿論、父親にはそれよりも前に果たすべき役割がありますし、子供の幼いうちに信頼を得る必要があります。
人は親になって、その責任を上手に果たすと、心がそれだけ豊かになる、新しい美しさがついている。母性と父性は人間性を高めます。子供がそれを認めて、それに応えることを、親孝行といいます。2.4 家庭法
新郎新婦が互いに自分をささげ尽くすと、互いの権利と責任が生じます。そして、その結果できる共同体は社会における役目と権利を持ちます。だから、公に結婚式を挙げ、民法上の届け出を行います。
家庭は社会の一番根本的な単位です。ただの友情関係でもなく、寮でもありません。将来の市民は家族の中から生まれ、その中で価値観を習いますから、社会はそれを保護する義務があります。
多くの国において、価値観に関することなら政府は「中立」でなければならないという理由から、相手が同意しなくてもいつでも簡単に離婚できる法律を作っています。そして、同棲や同性愛などに結婚と同等の権利を与える傾向があります。そのような法律がある結果として、結婚してもしなくても同じだと思っている若者が多くいます。絆も拘束もない生活が一番楽だと思っているので、何回も恋をして、何回も失恋しますが、一生を賭けた約束ができないので、常に不安に付き纏われています。結局のところ、相手は使い捨て同様の存在ですから、可哀想なのは子供です。このような二人なら、利己主義的な関係で一緒になっているだけですから、子供の虐待が増えます。子供の精神面での病や自殺多くなり、社会が乱れます。これはいま実際に起こっていることですが、正しい人間論から判断していたなら、あらかじめ予想できたはずです。人間が本来の道から外れるとこうならざるをえないのです。
3. 教育
3.1 成長とは
成熟した大人と子供はどこが違うのでしょうか?知識の面で大きな違いがありますし、また、大人のほうが体は強く、いろいろな動作がうまくできます。しかし、知識と技術を身に付けるだけで成熟した人間になるわけではありません。ロボットにもたくさんのデータを詰め込むことができますし、胴体を動かす機能を備え付けることもできます。
自動販売機でお茶を売ることはできますが、レストランで給仕する人とはずいぶん違います。自動販売機には感情がありません。感情は人といっしょに育ちますから、レストランで食事をしている親と子供の感情にも違いがあります。未熟な子供はすぐに泣いたり、腹を立てたり、ふざけたりしますが、成長するにつれて親のようなバランスの取れた感情を持つようになります。
どんな会社にもコンピューターがたくさんありますが、機械が想像力を働かせて、同僚や顧客と相談し、役に立つ提案をすることはありません。つまり、人間は機械にはない知恵――想像力、判断力、話術など――がありますし、これも当然、人といっしょに育つものです。そして、頼りになる社員なら、自分で目標を決め、手段を選び、あきらめずに努力します。要するに、知恵とともに意志も強くなるのです。
真に人間的な幸せに導かれるために、こういった精神的な能力を発展させなければならないのですが、正しい心と善悪を判断する力も必要です。倫理の基準を学ぶ必要もあるでしょう。また、人間にふさわしくない道を歩まないように注意を払うことも大切です。
ヒトラーはある面から見ると優れたリーダーだったとも言えますが、全体的に見て、正しいリーダーではありませんでした。だから、教育者は子供の全ての面での成長を考えて指導に当たるべきでしょう。3.2 人間形成
立派な青年を見ると、家庭がしっかりしていることが想像できます。子供は勤勉や楽観、正直、誠実、忠義、責任感、気配りなどを、まず親の模範を見て倣うものです。けれども、模範だけでは不十分でしょう。両親が教えるように努め、子供がそれに応えるよう努力しなければなりません。家庭によって教え方が違うでしょうが、共通点もあるでしょう。
こういう親は何よりも成熟した人間を育てたい、またはそのためにどうしたらいいのだろうかとしばしば考えます。実際、子供を産んでからは、子供を育てることが自分たちの第一の責任になります。子供のことなら何でも関心を持つという態度があれば、それは自然に子供に伝わるので、子供はいつでも気楽に親に話しかけることができます。悩み事があれば、だれよりも先に親に相談するでしょう。
徳は一度の努力だけでは身につかないので、両親は理解と忍耐が要求されます。親は子供ができる以上のことを望みませんが、課題を与えたり、家のためのルールを決めたりするのはあたりまえだと思います。
そして、子供の時間の使い方をよく観察します。役に立つ趣味、健全な趣味を持つように勧めます。友達と自由に遊ぶ時間を与えますが、同時に子供たちの友達を知る工夫をします。両親二人ががんばって良い環境を作るように努めても、別のところから悪い影響が入る可能性があるので、他の家庭と協力し合う必要があります。こうして、親友どうしの家族の子供たちがお互いに友達になることがよくあります。
人間形成は学校の先生の務めでもあります。機会があれば、両親と相談し合って、具体的な目標を決め、同じ方向に指導すれば、さらに良い結果につながるでしょう。しかし、子供の人間形成はあくまでも両親が第一の責任者です。学校の先生がノートの書き方を通して整理整頓の大切さを教えようと努めても、家でその生徒の部屋が散乱していれば先生にできることは限られます。学校で姿勢や挨拶をきちんとするように強調しても、家での行儀が悪ければあまり先生の話は耳に入りません。先生は何十人もの生徒を抱えており、一人ひとりの生徒に個人的に話す機会は少なく、限られた年数の関係なので、学校は愛の交わりである家族の代わりにはならないのです。3.3 教科課程
学校のカリキュラムにたくさんの科目がありますが、教育にかかわる全ての人は各分野の専門知識だけではなく、教科書や授業を通して伝わる思想も考えなければなりません。具体的な例を見てみましょう。
ある国で使われていた教科書と絵本に関する調査結果によると、学生が使う本の中に「結婚」という単語がほとんど現れませんでした。人々が我が家に戻る場面はもちろんありましが、そこにお父さんがいなかったり、二人のお母さんがいたりして、伝統的な家族構成は見つかりません。親が子供と話す場面があっても、たいていの場合、その親は子供の心がわからず、子供の自由を奪う、古い考え方を持つ嫌な存在でした。
また、科学の教科書の一つの流れによれば、宇宙は原因も目的も意味もない物質であって、人間はその中で偶然にできた原子の塊にすぎないと主張します。ある倫理社会の教科書は、「一つだけの考え方に偏らない」ためにと言いながら、文字通りの相対主義に偏っています。すなわち、倫理には客観性も普遍性もないと教えます。生徒や学生は自由に自分の好きな価値観を作れば良いというわけです。あからさまに宗教を非難することはありませんが、宗教は人を圧迫するものであって、現代人にほとんど役に立たないと暗に示します。
生徒や学生は、数学や地理、歴史、科学、政治経済などの基本的な知識を勉強しなければなりません。しかし、それらの勉強と同時に、もっと根本的な問題に関する理解も不可欠です。人間とは何者か、なぜ尊敬すべきなのか、人生は何のためにあるのか、人を幸せにするのは何だろうか、自分と周りの社会はどう関係すべきか――こういった真理は教育と文化の基盤となるべきもの、どうしても必要な事柄です。3.4 親の権利と責任
夫婦の愛から生まれる子供は、まず自分の両親と兄弟、そして祖父母から美徳と価値観を倣います。昔は、この自然な教育制度を守りやすかったでしょう。ほとんどの人は職業を家の中で習いました。寺小屋で稽古をしましたが、そこで教える先生は同じ村の直接の知り合いだったため、家族的な雰囲気が保たれていました。
その後、国の発展を迅速に進めるために、政府が全国の教育制度を定めました。これにより、全ての子供が学校教育を受けることが保証され、外国からの新しい技術をいち早く導入することができるようになりました。けれども、教育がシステム化された結果、子供が親の手から奪われたのではないかという批判があります。
昔のような村社会に戻るのは無理でしょう。けれども、親が密接に教育にかかわることはどうでしょうか?これが無理と言えないでしょう。実は、そう望んでいる学校もあります。ところが、親が他人任せに慣れているのか、それとも仕事から離れられないためなのか、往々にして、親は子供の本当の意味の教育にあまり協力的でないようです。
逆のケースもあります。親が多大な関心を持っていて、学校を訪れたり、先生や他の親と相談したりします。しかし、システムが大きすぎて、なかなか教育の中身を変えることはできません。これは日本だけが直面している問題ではなく、解決するために、各国でいろいろな策が講じられています。
親の会に権利を与え、予算や人事、教科書の決定のプロセスに加わってもらうことは一つの方法です。また、親が自由に学校を選択できる制度が整えられている地域社会もあります。近くの公立学校に対して不満が多くても、お金がないから私立学校に行かせることのできない家庭がたくさんあります。そこで、税金を全部同じ公立のシステムに流す代わりに、子供を持つ家に「voucher」(バウチャー、小切手みたいな券)を渡し、親が決めた学校にその金額を収める制度もあります。さらに、Home-schoolingというやり方もあります。アメリカ合衆国では百万人以上の学生が、学校へ行かずに家庭で教育を受けています。他の子供たちとの交流は近所の公園やクラブ、スポーツ施設などで行います。彼らは共通試験を受けて卒業することができます。
他にも方法がありますし、まだ実験していない方法も考えられるでしょう。大事なのは親に子どもの教育の責任を持たせることです。
4. マスコミ
4.1 正しい情報
村社会の一つの欠点は、情報源が限られているということです。交わりの輪が広がれば広がるほどそれに参加する者は豊かになります。こんにち、多様な国の多様な人や団体と交流することができ、自分が何に信頼を置くかについては自分で選択できるので、独裁者に操られる危険は低くなったといえるでしょう。
逆に、情報が多すぎて困ると思う人もいます。ここで忘れてはいけない点が一つあります。どれほど膨大なデータを集めても、データだけではどうしていいか分るはずはないということです。同じようなニュースを何回も聞くと、たいていの人は納得してしまいますが、一方的、一面的なニュースなら、結論を信用しないほうがいいでしょう。実験科学がまだ進んでいなかった時代には、大学が哲学に力を入れていたので、問題を考えるとき、人々は人間と社会の基本的な基準に沿って判断しました。情報が豊かになったのはいいことですが、それでも基準は重要性が少なくなったわけではなく、かえって、仕入れた情報をゆっくり考えることの重大切さが増したと言えるでしょう。
現代の情報時代には、他の問題もあります。顧客を増やすため、ポルノでも嘘でも、どんなものでも放送する企業が少なくありません。このようなジャーナリズムは、もちろん人々を迷わせ、真理の道から逸らせるので、文化を豊かにするとは言えません。プライヴァシーも大事にしなければならないでしょう。心というものは公衆にさらすものではないはずです。信用する人に心を明かすことがありますが、関係のない人に見られたら恥ずかしく感じます。『慎み』は自然で大切なことです。メディアはその価値を尊敬すべきでしょう。
新聞やラジオ、インターネット、映画など、いわゆるメディアには、それぞれの特徴があります。音(音楽)と映像とは、文章よりも遥かに直接的に、感情に訴えます。テレビのCMを見る人は、それまでほしいと思ったことがないものがほしくなることがあります。戦争のニュースを見ると、その忌まわしさに驚きます。事件ばかりを見ていると暗い気持ちになります。テレビドラマのキャラクターに共感して、真似をする人もいます。こういう特徴を上手に使えば、マスメディアは社会に大きな奉仕ができるでしょう。4.2 健全なメディア――プロヴァイダー側とユーザー側の慎み
普通の状況では、見も知らない裸の男性や女性を自分の家に入れません。しかし、マスコミを通じて、不潔なものが進入してくることがよくあります。本人が望んだわけでもないけれども、醜悪さが十分に理解できず自分をコントロールできない若者の手に、携帯電話を通して、ポルノが届くこともあります。
大人でさえ、こういうものには影響されて心が貧しくなります。そして、その心とつながっている社会全体が損害を受けます。ポルノというものは、人間(特に女性)の体を単なる物にしてしまいます。男性がこれにはまってしまうと、女性を尊厳ある人格としてではなく、男性の楽しみのための道具としてしか見なくなります。そういう見方をする人が増えるところには、暴力と性犯罪が増えて当然でしょう。
これは文明国にあってはいけない乱用ですので、政府が市民のために卑猥な文書や映像を制限したり禁止したりすることに不都合はないはずです。交通機関にも規制があります。これは自由を妨げるというよりも、市民が事故に遭わずに目的地に到着するためには不可欠な法律なのです。
マスコミが良心的に中身を編集しても、受け取る方も考えて活用しなければなりません。統計によると、毎日五時間以上テレビが点いている家庭が珍しくないそうです。その間ずっと画面を観ているとすれば、それはあまりにも受身的な過ごし方でしょう。実際は見ていなくて、ただ点けっぱなしにしている場合もあるでしょうが、それでも子供の集中力が落ちるという研究データがあります。何かをしているつもりでも、実は、ほかのことに気が取られるので、落ち着かなくなるのです。
それと比べてテレビゲームは、自分で操作するので受身的ではないと考えられます。ですが、子供をよく見ている年配の人は、昔の子供は自分で遊べたけれど、ゲーム世代の子は遊び方を知らないし、すぐに飽いてしまうと言います。つまり、絶えず刺激を受ける状態に慣れているので、忍耐力が弱くなる危険があるのです。それに、昔の遊び方は友人との交流がありましたが、ゲームをする子供は孤立しています。他にも考える点があるでしょう。ゲームの種類や中身はさまざまですが、暴力や、セックス、下品な言葉使いなどが多い場合もあります。ですから、両親は子供の年齢を考えて、どれぐらい頻繁にゲームをさせるのか、そしてどれを選ぶかを決めたほうが教育的によいでしょう。
研究者はテレビの影響について良い面(健康についての情報が役に立つというようなこと)を誉めますが、次のような否定的な面も指摘しています。まず、テレビはフィクションであることがわかっても、テレビを見る時間が多くなると、暴力に対して無感覚になり、また暴力を容認するようになります。さらに、乱れたセックスを認めるようになります。最後に、「problem-solving」に対する考え方も影響されます。つまり、ドラマの主人公が問題に直面すると、たいていの場合、短時間で非現実的な方法でその問題を片付けます。両親は子供がテレビを見る時間が適切であるかどうか、そしてどんな番組を見ているかに注意を払うべきです。時には、子供といっしょに見て、その中身をどう思ったらいいかを話し合い、頭を使って見る方法を教えるのも役に立つでしょう。
5. 経済
5.1 ニーズを満たす
現代人の多くは一ヶ月の間にたくさんの人々と係わり合いを持ち、たくさんの会社の世話になって、お金を儲けたり費やしたりします。例えば、新聞記者はあちらこちらと動き回りますから、自動車や電車、そしてそれらを動かすガソリンや電気が必要です。毎日三食が必要ですから、レストランやコンビニ、スーパーマーケット、農業組合、運送会社などがないと生活できません。髪の毛が伸びるから、理髪店や美容院が要ります。電話や文房具、薬、本などのニーズのために、それぞれの業者がいて、そこでも同じように人々がいろいろなところの世話になりながら仕事をし、生活を送っています。
経済というのは、人間の必要性を満たすための知恵です。人間は知恵によって生活します。動物は、ある特定の環境で生きるために体がその環境に適応します。人間は逆に自分に合った環境を作り、そして、そこでより人間らしい生活ができるために必要なものを発明してゆきます。
「必需品」というのは、まず衣食住です。しかし、こういう「最低限」の必需品にも人間らしさが見られます。物を食べるのはもちろん、必要な栄養を取るためですが、人間は魚をそのまま口に入れず、料理します。衣類は体を守るためや異性の色欲を刺激しないために身に着けます。単調な模様の布を体の周りに巻いても同じ効果があるでしょうが、「美」のよさがわかる人間、美的感覚をもつ人間は、ファッションを好みます。
実は、必需品と贅沢品を見分けることは簡単ではありません。何でも必需品になる可能性があります。ある人にとってゴルフは不要なことにしか見えませんが、健康あるいは商売上の理由のために、ある人にとっては不可欠の要素でしょう。昔、めがねや携帯電話は存在しませんでしたし、今も使わない人が多いとはいえ、現代社会には無くてはならないものになっています。
人間らしい生活を送るために、ある程度の余裕が要求されます。考える時間や楽しむための余暇、人々と商売以外の話をする機会などです。一日の糧を得るだけで必死というのであれば、人間として持つべき自由はまだないといえるでしょう。家庭用の電化製品を持つこと、映画館へ行くこと、より便利な乗り物を手に入れることは、日本や欧米では贅沢ではないでしょうし、経済がうまくいくとこういう可能性が豊富に出てくるでしょう。しかし、いずれも「いい生活」の条件にすぎません。経済の目的は、消費主義の楽園を作ることではなくて、より人間らしく生きることを可能にすることなのです。5.2 資源の問題
19世紀のアイランドに住んでいたマルサス牧師は、人口増加が止まらないと、もうすぐ食料がなくなると主張しました。畑にできる土地は限られていて、一人が必要とする広さ決まっている。従って、必然的に危機が起こると。ところがそういう危機はいまだに起こったことがありません。
20世紀の後半にポール・エールリク博士が、何冊ものベストセラーを書いて、同じ説を繰り返しました。資源がもうすぐなくなる、地球が非常に困っている、としきりに訴えました。そうではないと反論したジュリアン・サイモン博士は1970年に、エールリクと次のような賭けをしました。資源が使い果たされつつあるのであれば、物の値段がかならず上がるはずである。ところで、エールリク先生が指定する五つの金属の現在の価格と10年後の値段を比較しょう。サイモン先生は、それらの価格が十年後に今より安くなっているほうに賭けました。先生が予想したとおり、エールリク博士が選んだ銅とクロム、ニッケル、スズ、タングステンは、1980年の(70年のドルの価値に換算して)値段が安くなったのです。
資源が少なくなると物の値段が上がります。しかし、値段が上がると、より効率の良い活用方法が発明されたり、貴重な資源を使う代わりに他のものを使う方法が発明されたりして、高価な資源を使う必要がなくなり、値段が下がるのです。こういう風に、次々と新しい発明ができるためには投資が必要ですが、人口が増えている限り若い働き手が多いので、収入は消費より高くなります。その結果、充分な投資が可能になるのです。資源を使い果たすことはありません。農業の技術が進歩するので、少ない土地を有効に利用して、余るほどの農産物を作ることができます。金属や電力、飲料水に関する問題が現れても、解決法が見つけ出されるのです。
数百年前、石油は資源ではなく、畑を汚す黒い液体でしかありませんでした。使い道見つけて、それを開発してから、重要な資源に変わったのです。同じように、太陽や波、風、水素などを利用する技術は現代開発中です。人間は仕事によって富を創ります。人間は問題を起こす、いや人間自体が問題であるという考え方は、あまりにも悲観的すぎると思われます。人間が問題を起こすことがあるにしても、それよりも人間が持つ創造力、問題を解決する能力を感嘆すべきではないでしょぅか。
まれに、一つの発想で世界が変わることがありますが、これはやはり例外です。普通は、毎日毎日、何年も続けて、同じような仕事を繰り返しながら、少しずつやり方を改善していきます。そして、大勢の人々の目立たない努力が実を結んだ結果として、社会は進歩するのです。大人は単発的な仕事だけで満足できません。特定の職業を持ちます。職務を全うしようとするので、自分の考え方はこれに影響されます。ただの「おじさん」、「おばさん」ではなく、営業マン、経営者、教師、主婦、看護師、公務員といったキャリアを持つ社会人です。キャリアを通して人から学び、自分も教えるのです。仕事は経済力の発電機のような働きをします。上記の哲学用語で言うと、仕事とは交わりの場であって、仕事を通して、人間は豊かになるのです。5.3 節制
必要性に縛られている人は、考える余裕がありません。文化遺産に宝物を見つけて心をより豊かにすることも、自分から奉仕することも難しくなります。自由がないので、社会共通の努めに参加できない状態にあるのです。
経済は必要性を満たし、人間の心を自由にしようと努めます。しかし、本当は物的な余裕を与えるだけでは、このジレンマを解決することはできないでしょう。
心が物に執着すると、必要なモノが際限なく増え、常にお金のことを心配するようになります。心の余裕がないために、人間としての自由をなかなか味わえないのです。会社や大学へ行くのに40分も歩くのは大変だから、もう一台の車が要る、体を動かす機会が少ないからフィットネスクラブの会員になる必要がある、クラブの飲み会に出なければならない、――こうなると、見事に罠にはまった状態というべきでしょう。なぜこんな生活をしているかについて考えることさえできなくなります。逆に、ぜんぜんお金を使わないで、行きと帰りで一日二回の散歩をするほうが自由で人間的でしょう。節制はある意味で人を自由にします。
「お金」は一般に受け入れられている交換の手段です。数え切れないほどの目的に役立ちます。お金を払って勉強することができる。便利な物を買って、時間を節約することができる。弁護士やPRコンサルタントを雇って、会社の評判を高めることができる。寄付して、慈善事業への協力もできる。何でもできるので、持っているだけで自分が偉いと思う人がいますが、持っているだけで心、または社会が豊かになるのではありません。豊かになるかどうか、それは所有している財産をどう使うかに掛かっています。人間はお金のために存在するのではなく、お金が人間のために存在するのです。5.4 商業倫理
明治時代における商業の近代化の先駆者であった福沢諭吉は、「士魂商才」を説いて、進歩と伝統の両方の大切さを強調しました。「利より義」、つまり、公共、人倫、節度などの精神を生かして商売すれば良いと伝えました。福沢に教わった日比翁介が日本初のデパートを設立しましたが、社会貢献のために店を拠点にして、文化事業をはじめます。子供博覧会を開いて、外国からの珍しいものをたくさん展示しました。また、日本で知られていなかった西洋楽器を輸入し、楽団を作って博覧会で演奏させました。毎年恒例のイベントとなり、大きな影響を与えます。結果的にデパートはたくさんの楽器を売ることができたけれど、もともとの発想は金儲けというよりも社会貢献でした。この奉仕が当時の社会のニーズに見事に合致したことが、成功の原因だったのでしょう。
社会のニーズは多様なので、「最少の費用で最大の利用」という経済の一つの原則があります。現代のシステムは市場経済と呼びますが、市場は人々の欲と作る側の欲とを能率よく合致させます。メーカーが売りたい物と消費者が買いたい物が合致すれば、両側が得をします。メーカーが出している製品を欲しがる人が減ったら、メーカーが消費者の要求に応えて作戦を立て直します。
市場の取引が問題なく行われるために共通の枠組みの中で商売が行われます。事情はいろいろあるので、市場のルールは細かすぎると不便でしょう。自由でなければなりません。だからと言って、市場経済に携わる者が最低限の法律上のルールを守って、そのあとは完全に個人の都合だけ考えたら良いというわけではありません。取引相手はもう一人の人格(または団体)なのですから、ある程度の連帯感を持って行動するのが人間の道ではないでしょうか。
自由経済は能率的ですが、何でも市場に任せると容易に問題が生じるので、そのシステムを調節するのも当然です。たいていの国が最低賃金を定めるのはそのためです。薬の開発と販売もわかりやすい例です。先進国の製薬会社が新しい薬品を開発するには巨額の資金を投資しなければならないので、それなりの値段をつけないと会社が倒産します。発展途上国に住んでいる人はそれだけの支払い能力がないので、製薬会社は貧しい人のための薬を開発しようと考えません。この問題を解決するために政府が直接責任を取って薬を開発する必要はないでしょうが、民間の研究所に何らかの援助(または税金の免除)をすることによって道を開く可能性があるでしょう。
何よりも社会を困らせるのは、不正な商売です。詐欺が盛んになると、システム全体を支える信用が薄くなります。同じように、投機やインサイダー取引などのために騙される人が出てきます。株の売買は、一般の人が調べれば事情がわかることが前提ですから、裏で価格の操作をするのは不正な行為です。
多数の人が共通の価値を持って、同じ努めに取り組んでいる集団を「団体」といいますが、商売をするために法人化して、商業の枠組みに当てはめます。現代、そのような組織を『会社』と言います。事業を始めるときは、たいていの場合は会社が主体ですし、問題が生じるときに会社が責任を取ります。会社は競争相手から刺激を受けるので、市場の中で社会の要求にうまく応えるために仕事を合理化します。生産力を最高にするように努めます。
しかし、金銭的な尺度で測った「合理化」を会社の最高の価値とすると、人間が損することがあります。例えば、残業が長く続くため、または出張や転勤のために社員が家族にほとんど会えないケースが出てきます。会社が家族の交わりを妨げれば、人間と社会を貧しくします。そして社員は、「参加している」というよりも「利用されている」と考えるので、忠実に会社のためにベストを尽くす意欲がなかなか湧いてこなくなるでしょう。
6.政 治
6.1 法
法律は自由を制限する法則だと考える人がいますが、別の見方もできます。自然界にも法則があります。物理の授業では、一定の方向に走っている物はそのまま走り続けるのが自然であり、曲がるためには力が要ると教わりますが、日常生活の中でもその影響を感じるときがあります。体の骨や筋肉の構造は決まっているし、それに合わせて生活するしかありません。たとえばスポーツをする場合を考えてみましょう。否定的に考えれば、自然の決まりを破ると怪我をするのは残念だとか、人間はコンピュータゲームのキャラクターのような動きができないのは悔しい、などと思うかもしれません。だが、やはりゲームはファンタジーにすぎません。現実の世界では、正しい運動の仕方があります。その方法に従えば従うほど、うまく動けるようになります。すばやく方向転換したり、高く跳んだり、スタミナを保ったりできるのです。まるでそのために創られたのかと思うくらい、体のあらゆる部分がバランスよく同じ目的に向かって協力しあうので、選手が自由自在に動きます。筋肉と骨などの法則に従うことは自由を奪うどころか、逆に可能性を与えると考えるべきでしょう。
精神の世界にも変えられない現実があります。それに従って生活するためなら、自由があります。例えば、必要でない状況で暴力を振るうのは間違いなので、その道を選択する人は自分の中に傷が残ります。そして、人と接するときに自分の心にあるものを分かち合うことになるので、社会にも悪影響を与えます。逆に、問題に直面したときに辛抱づよく、人間にふさわしい解決を求めるなら、人間として成長することができ、社会をも益することになります。哲学者は「真理――ここで『現実』と呼んでいるもの――は善である」と言いますが、まさにその通りです。このために、つまり、自分で人間の善を望んで行動するために自由があるのです。
世界には(ひいては人間にも)秩序があり,善があります。この現実は、人間が作ったものではないけれども、それを発見することができれば、大切な賜物として受け入れるべきです。受け入れ,そして守るべきです。人間の尊厳を特に守るべきでしょう。たとえば、人間らしく生きるためには所有権が大切だと上で述べました。それを他人に認めてもらうために公に届ける方法、またはそれを譲る方法、または盗られたに取り戻す方法などがないと社会は混乱しますし、人間の尊厳を損なう危険があります。
そのために法律が作られます。時代によって、文化によって、その詳細が変わりますが、最終的に人間の尊厳に基づいているはずです。法律制度がないと、弱い立場にいる人が自分の権利を認めてもらうことは非常に難しくなるのです。6.2 街づくり
世界にはさまざまな文化がありますが、一人で森の中で暮らすことは小説や映画の世界にしかありません。社会の中で生活します。そして、自分たちの場所があります。移動する遊牧民族でさえ、同じ道を通って同じ地方を巡ることが多いのです。毎年ある季節が訪れると、昨年見た風景をふたたび見ることを楽しみにします。休憩するところが決まっていますし、そこに来年のために物を隠しておくこともあります。
自分たちの街や地方、人と気楽に話す場、人間関係を築く場、人から学ぶ場、お互いに助け合う場、街の近くで健全な遊びができる所、自然、公園、文化施設、歴史を思い出させる記念碑などがありますが、それらをきれいで便利な場所にしたいものです。
本当に「自分たちの街」であれば、そこの住民の多くはそう努力するでしょう。これは、高い税金を納めて役所に街を作ってもらうのとはずいぶん違います。むしろ、自分たちがそのために作った住民団体が協力し合って街づくりに取り組むのです。ある人は子供の人間形成に関心を持ち、ボーイスカウトや他の青少年の活動に手を貸します。俳人が大会を開いて、集めた寄付金で国際交流の援助を行います。別の団体が障害者のための施設を運営します。大学の人権を研究するクラブが、困っている人たちの状態を大勢の人々に知らせます。教会の信者が「いのちの電話」を通じて、自殺を考えている人を助けます。親の会がテレビ番組を確かめて、子供に悪い影響を与えると判断したら問題を解決するように働きかけます。家で民芸品を作り、その作り方を教えます。お寺が引きこもりの檀家の世話をします。会社、あるいは近所の数人のグループが保育園を作ります。
民間のほうが自治体より能率がいいと言われるのですが、それだけの問題ではありません。市民社会が活発だと、市民の意欲と責任感が強まり、人々は友人の輪を広げ、活動に参加して価値を分かち合うことになります。自分と政府との間に何もないと、群集の中の一人になってしまいます。個人がたくさんいても、お互いの関係が非常に薄い社会になります。奉仕する精神がほとんどなくなるので、自分のことだけを考えて,政府の予算をできるだけ自分のところに回してもらうとしか考えなくなります。そして、政府が非人間的な方向へ進むとき、そのたくらみを妨げるものがなくなるのです。
政府は市民団体がなるべく容易に動けるように配慮すべきです。政府が動かないと民間の団体がではできないことがたくさんあるので、政府が市民の声を聞いて、その役割を果たせば良いのです。6.3 民主主義の条件
英語で「Two heads are better than one」と言う表現があります。一人でどうしていいかを考えるより、二人がいっしょに考えたほうが良いということです。社会を指導することも、数少ない人に任せるより、できるだけ多くの人が何らかの形で参加するほうが良いのです。しかし、その役目を果たすには条件があります。教育です。また、一定以上の時間、または経済的な余裕が必要です。差別を受けずに意見を聞いてもらえる立場にいないと難しいのです。というわけで、できるだけ多くの人が一人前の市民として行動できるようになることは、政治の一つの大きな目標だと言っていいでしょう。
教育は特に大切です。市民が職業を持っていて、文化を味わい、自分で考えて自分で決めることは民主主義の前提です。これがなければ、市民は投票権を持つ操り人形にすぎません。食べ物と安全、娯楽さえ保証されたら、それ以上のことを考えたくなくなるものです。でも、そのような態度は国をだめにします。人間を尊重するには、正義、連帯、人権、責任感などが不可欠です。
相手に自分の権利を認めてもらうために、自分も他人の権利を認めるべきです。そして、もっとも根本的な権利は生きる権利ではないでしょうか?胎児や病人や老人は物ではありません。愛すべき人格です。「障害者は幸せになれないから、死んだほうがましだ」と言う人がいますが、障害者の自殺率はほぼゼロです。死にたいと思う人はいません。だれでも命のよさがわかるはずです。動揺したときに「死なせてください」と言う人も、近くに温かく接してあげる人がいればそのようなことを言うはずがありません。恐ろしい数の罪のない命を見殺しにするのは、現代社会の最大な罪であると言っていいのではないでしょうか?6.4 政教分離
昔のような村社会と違って、現代社会は多文化的になりつつあり、そのほうが社会を豊かにすると思えます。そして、何よりも人が自由でないと人間らしく生活できないので、皆に画一的な生活スタイルを押し付けるのではなく、人々の習慣が多少異なっても寛容な態度をとるべきです。ところで、自由を尊重することと、自由の乱用を許すこととはずいぶん違います。ある人が不正な社会構造を直ちに改善するために革命を起こさないといけないと信じてテロ活動をしたいと思っても、政府はそういった価値観を許容すべきではありません。
市民が人間の尊厳に基づいた価値を生かし、それを教えるように努めないと社会が崩れるに違いありません。法律を守ること、相手のことを考えること、道徳的に行動すること、家族を大切にすること、平和を求めること、さらに勤勉や忍耐、正直などは社会生活の基盤なのです。
偽の宗教はありますが、そういう例外を除いて、宗教というものは人々に愛や道徳などを教えます。社会において大切な役割を果たします。政府が直接に価値観を教えることもあるでしょうが、市民の信用がなければこの役割をうまく果たせません。ある一定の思想を正式に取り入れて、他の団体を妨げるほどその思想を押し付けるような場合には、問題が起こるでしょう。戦前の国家神道がこの点で行き過ぎたという理由で、戦後の日本は「政教分離」の原則を取り入れたのです。
宗教は無い方がいいという説もありますが、20世紀に悪い事例があります。無神論のイデオロギー政党であるナチスドイツが政権を握ると、数百万の人が殺害されました。マルクス主義を取り入れたソビエトと中国で殺された人の数は、数千万人にのぼります。歴史上一番残酷な時代だったと言えるでしょう。
「政教分離」の別の解釈によると、宗教団体は政治問題について何も言ってはなりません。ここで、正義や人間の尊厳に携わる問題に関する基準を教えることと、具体的な政党や政治家や法案などを支持して運動することとは区別されなければなりません。宗教団体は政治活動を避けたほうがいいでしょうが、人が考えるべき倫理などを市民に思い出させることは当然できます。信者に向かって教えるときに、自分たちの聖書、表現、伝統を使うでしょう。一般的に通用する知恵に頼る話であれば、一般市民を対象とした話も社会に役立つし、政教分離に反しないではないでしょうか?
信者であろうとなかろうと、人はいろいろな情報や助言を聞いて、自分で考えて市民・国民として投票します。投票するときに宗教を無視すべきだと言う人もいますが、これは認められないでしょう。人間の頭は一つですから,一種の分裂を起こして、「聖堂の中では、物事をこう考えるけど、外に踏み出せば目を取り替えて別の見方をしましょう」というようなことはまったく不自然です。
場合により、宗教に絡んでいれば、どんなにすばらしい市民活動であっても、公の場で活動してはいけないと言われ、また援助を受けられないことがありますが、これも行き過ぎでしょう。結局、政教分離を厳格に解釈すると、宗教は完全に個人的なものにするしかないのです。自分の心の中にしまい込んで生活すればいいと言う考え方です。しかし、これこそ偏っているではないでしょうか?結果的に無神論を推薦すると同じことです。人々に自分の心にあるものを表す権利を認めないことになるからです。
神は民主主義の敵ではありません。むしろ、神を信じる者は簡単に人間を憎むことはできないのです。相手は自分と同じく神の子です。相手を拒絶すれば、その人を作った神を拒絶することになります。神が存在しなければ、自分の尊厳の根拠をどこに求めることができるのでしょうか。全ての人は平等であるというだけでは、何の保証にもなりません。共食いする虫と同様、天を恐れないものが、どうして弱いものを守るといえるでしょうか?
謝辞
この原稿の主な参考文献は、リカルド・イェペス、ハビエル・アラングレン著『人間学の基礎』(Ricard Yepes and Javier Aranguren, Fundamentos de Antropologia(2003, EUNSA)である。私は、以下の作者にも依拠している。ジュリアン・サイモン(人口学と資源について)、ヨゼフ・ラッツィンガーとリヒャルト・ヨハン・ノイハウス(民主主義、宗教、文化について)、レオナルド・サックスとヨハネ・パウロ2世(性差について)
邦語文献は、 ガエタノ・コンプリ『人間を考える』(1995年、ドン・ボスコ社)あるいはヨハネ・パウロ二世『新しい課題』(1991年、カトリック中央協議会出版)を参考のこと。